私の「変態」について:女医の働き方シンポジストin 美容外科学会(JSAS)

私の「変態」について:女医の働き方シンポジストin 美容外科学会(JSAS)

先日、東京で開催された日本美容外科学会(JSAS)で女性医師の働き方についてのシンポジウムがあり、シンポジストを務めました。

女性医師の働き方について話すって、正直言って何を話したら良いかわかりませんでした。

私の生き方は割と不器用で、壁にも何度もつきあたり、失敗も多かったので、それを話したところで、他の女医さんにとって何の参考にもならないような気がしました。

座長の杉野宏子先生や他のシンポジストの先生方にもご相談し、悩みつつ、自分のそのままを話すことにしました。

私は色々と状況に応じて、働く場所や働き方を変えてきました。

これを「変態(metamorphosis)」になぞらえて話をしました。

変態とは、春に多いアレでなく、芋虫→さなぎ→蝶に変わることの方です。

女医も、最初は医学部生→研修医→女医と変態し、

また女として

娘→妻→母と変態していきます。

私は、働き方や場所、所属を色々と変えながら働き続けました。

宮崎医科大学を卒業し、昭和大学(東京)の形成外科に入局しました。昭和大学に入ったのは、形成外科を学ぶなら歴史ある教室に行きたかったことと、東京に憧れていたこと、また、いずれ福岡に帰りたかったので、九州に関連施設の多い医局が良かったからです。

昭和大学で形成外科の専門医研修を行ってから、開業医である見寺先生(福岡)のところで美容を叩き込んでいただきました。

その後、もっと、美容を学問として学んでみたいと考え、福岡大学形成外科の大慈弥教授のもとで勉強させていただきました。

このように働き方を変えたのは、私が飽きっぽいというだけの理由ではありません。

医者という仕事は、多くの場合、交代要員がいません。

不妊治療を始めた際、勤務していた病院で形成外科医は私一人でした。手術の予定が決まっていたら、その予定をずらすことも、誰かに代わってもらうこともできず、何週もホルモン剤を注射した挙句に、自分の卵子の最適のタイミングを諦めることもありました。不妊治療には度々失敗し、苛立ち、焦りは募るばかりでした。

その時は35歳でした。

不妊治療を諦めるか、仕事を辞めるか、仕事を続けるなら働き方を変えるしかなく、私はその当時の病院を辞めることにしました。その頃、その状況を知っていた見寺絢子先生に声をかけていただきました。見寺絢子クリニックは、見寺先生と私の二人体制で、私の非常時には休むことを認めていただきました。

その後、不妊治療に成功して妊娠と出産を終えました。そのワガママと自由を寛大に認めていただいた見寺先生には、心から感謝しています。

子供が生まれてからは、周りの人たちに助けていただきながら、その日をなんとかこなす日々。子供の学校からの着信に焦り、台風が近づく時やインフルエンザ大流行には休校に怯え、母にSOS。息子は可愛いし、仕事は休めないので、不安と苛立ちを夫に八つ当たり。

福岡大学での勤務の際は、時短勤務制度を利用し、同じような状況の女医さんと助け合いながら働くことができました。

今は開業し、実母に助けてもらいつつ、いざという時には、息子を院長室に連れて行き、なんとか仕事と育児とを両立させています。ワークライフバランスなんてトンデモなく、毎日綱渡りしながら、息子はようやく2年生になりました。

女医たちは、その時の状況や環境に応じて、人生の優先順位を決め、しなやかに変態しながら(変わりながら)生きていくしかありません。

気づけば、どんどん逞しくなってしまいました。

そんな私を夫がある花に例えました。

ビオランテです。 ビオランテについてはこちらをご覧ください。

ゴジラもたじろぐほどです。

ちょっと、逞しくなりすぎたでしょうか。

いえ、もっと進化する予定です。

乞うご期待。

西田美穂